情報と資格と安心の話
情報を見る目を養えって、よく言われた方。
実際何回言われただとか分からないですが
言われたという印象を持っているということは、自戒しておこうとも思うところ。
インターネット検索で得られる情報のソースにはくれぐれも注意点するように!とも言われて学生生活を過ごしたし、専門的な高等教育を大金で享受しておりましたが、
専門的にわかってるひとがメディア経由の大きな声で大衆に適切な情報を流布してそれぞれの健康に寄与するなら私たちのような専門職の口頭情報伝達要らないんじゃない?
と、専門資格そのものに価値を見出だせない気持ちも同時にとてつもなくありました。
え?その資格取ったじゃん?
と、思うじゃないですか。
取ったのにこれ思うから『こんなん』じゃ人様の前に立ってはならぬ。
なにかもっともっとし続けなければ→進学→郷に従わなくては→ドロップアウト1回目
仕事→私がこんなんで駄目だからだめなんだ→度々心身不調→放出(今)
なんで資格取ったんだっけ?
より専門的な知識の教育を受けた状態である証明があることで安心するから(私が)か?
1回も安心したことがない。
1回も、安心したことがない😃
1回たりとも、安心したことがない……!!!
なのに、こんな不確かな情報源も筆者も何処の誰かも分からない情報に山ほど触れて、誰も彼も平気でいられるのか!
直近でたまたま聞いた医療情報の出元にあたるのにこんなに玉石混合で取捨選択に労を要するのか…!
というちょっと落ち着けや的ノイローゼ発症しました。
何かに対してそれを事実であると伝えるときに客観的指標を用いて証明説明することはできますが、
これをどうこうして、そうした方が良いであるとか、これこせ適切であるとかいうのは、与える側の理論上のお話で、科学的なようでそうでもないようで、そこに付随している判断は自己責任であるし、こじれているのはそこではなくて
私。